これが本旅最後の日記です。
所感的なことを書き残しておこうと思います。
その前に幾つかお知らせです。
・日記を一部修正しました
-ロサンゼルス、バルセロナあたりの日記の画像が別の画像にさし変わっていたのを修正
-南米あたりで多用したGoogleMap引用がうまくいっていなかったのを修正
-北米~南米の画像潰れ、画像抜けを修正
・当世界旅行の写真を集めたInstagramアカウントはこちらから。
写真展的にお楽しみいただけましたらば幸いです。
■■■■■■■■■■■■■
▼本日のお題目
1.この旅を振り返って、どうでしたか
2.このブログについて
3.今後について
■■■■■■■■■■■■■
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■この旅を振り返って、どうでしたか
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て、
この数日間、なんどもご質問いただきました。
ええ、実に難しいです。
ひとまず、思い切りまくって一言で言うならば
「楽しかった」
です。
すみません小学生みたいなことを言いますが、
上記のとおりです。
ときには
NYのカウントダウンイベントで-15度のなか
メッシュスニーカーで最前列で14時間近く待ち足の指を切断しなきゃいけないんじゃないかと思わされるぐらい凍傷しました。
帰り道、靴が脱げて靴下で歩いていることに気づかなかったくらい
くるぶしから先の感覚がありませんでした。
ときには
Booking.comで安さ重視で取ったリオデジャネイロのとある街区で拳銃を突きつけられました。その日の夕方、宿で日記書いてたら爆竹みたいな音がして「さすがカーニバル」と思ってたらTVのニュースで宿のすぐ下のトンネルで起きた拳銃強盗がお知らせが流れました。
ときには
インド最後の日、夜行列車で席が取れず通路のドラム缶の上で一夜を過ごしました。
足元には目の前のトイレから黄色い水が溢れ出している中でインド人が隙間なく寝っ転がり、
ドラム缶は上下左右に激しく揺れなんどかインド人の上に転げおちたりしました。
そんなこともありましたが、
総じて楽しかったです。
総論は上記の通りですが、
もうちょっとだけ、思ったことを3つ箇条書きで書いてみたいと思います。
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【1】世界旅行は、言うほど難しくない
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「世界旅行」だなんて、私にとっては無縁の領域でした。
お金もないですし、時間もないですし、
英語もできないですし、考えたこともないからそもそもよくわからないし。
でもいざ出かけてみたら、できちゃいました。
誰かが言ってましたかね。
「いかなる人も最初は第一歩から始めている」と。
「お金」と「時間」に関しては確かに簡単な話ではないのでここでは割愛しますが、
英語とHow to(準備すべきこと、ルート情報、観光スポット情報、宿情報etc)に
関してはどうにでもなるなと思いました。
英語に関して。
私は前職でTOEIC800点必達を課されていたので点だけは保持してましたが、
日常会話ができるレベルでは決してありませんでした。
最初の国、アメリカではもういきなりしょっぱなから何言ってるかわからず
バス会社のスタッフにシッシッてされて次の客の応対が始まるレベル。
ただ、
Google翻訳(アプリはオフラインでも使える)と
そこからよく使う言い回しを書き写した筆談(○○へ行きたい、いくらですか、トイレ、程度)、ボディランゲージで、たいていどうにかなっちゃいます。
どうにかなりすぎちゃうので途中から新しい国に行く際は
「こんにちは」と「ありがとう」だけ、コミュニケーション策の一環としてその国の言葉を覚えるようにしたくらいです。
※ボディランゲージすら通じないシーンも一部ありましたけども。
ブラジル、ウズベキスタン、中国など。ただし中国は筆談でなんとかなります。
How toに関してはもう驚くほど先人ブロガーさんたちがありがたい情報を
残してくれているので、よほど珍しいルートを検討しない限り、事例があります。
そして海外は日本の数倍、Wifiが張り巡らされており、なんならSIMカードも街中で買えます。その場で情報収集しながら次の街への行き方や見どころ情報や穴場スポットやら
宿情報やらなにからなにまでネットで調べられます。
よほど危険な場所に行かない限りは、
思っていたほど世界旅行は難しいものじゃないんだな、と思いました。
なお「時間」と「お金」に関しては、私はものすごい量を投下しました。
あのまま働き続けていた人生と比べて旅に出てみた人生がどうであったか、は
これからの話なので、ここではひとまず置いときます。
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【2】楽しいかどうかは、自分次第
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「自分が楽しいと、世界が楽しい」
いつぞやの、私が尊敬する人が使っていた言葉です。
この言葉を改めて強く実感しました。
まず、ブログを読まれている多くの方が内心思っていることでしょう。
「この人ひとりぼっちで旅してて楽しいんだろうか」
ふふ。
楽しい。
実に楽しい。
サイコパスだとお思いでしょう?
そんな私ですが、実のところ、既述の通りしんどいこともありますし、
わかりあえた人と来ていたらもっと楽しいだろうに、
と思ってしまう瞬間も確かにあります。
ただ、この私達が目にしている世界は現実だとしても、
それをどう捉えるかは自分次第だと思うのです。
今回の旅では胸が痛くなるような場所もたくさんありました。
経済危機、宗教上・政治上の理由、過去の戦争や内戦で苦しい生活を余儀なくされている人、
なかにはその問題が日本に起因しているようなケースもありました。
その中で、びっくりするような笑顔で手を振ってくれる人たちが少なくない数、いるのです。
それは私が私の物差しで勝手に彼らの現状を「苦しい生活」と決めつけていただけで、
彼らは前を向いて生活をしていたのです。
現実に対してどう捉えるか、は自分次第。
そんな簡単なことではない思考法ですが、
今回の長旅で、その素晴らしさと重要性に、改めて気付かされたように思います。
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【3】国、宗教、肌の色、立場、は違くても、人の想いはみな同じ
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NYで14時間もの間極寒の中を待ち続けた後に2018年の幕開けに拳を振り上げて周囲の見知らぬ人同士で抱き合ういろいろな肌の色をした人たちや、
メキシコの海で、波と戯れて大笑いで私をどついてくるおばちゃん、
南米の強盗多発地区の聖堂でひざまずいて十字架に祈るおじさん、
リオのカーニバルで朝6:00までレッドブルとビール片手に腰を振りまくるおばさん達、
聖地エルサレムにて、目を閉じ、涙を湛えて祈りを捧げるユダヤ教徒、キリスト教徒の方たち、
挙げだせばキリがないですが、
人間は国も宗教も肌の色も立場は違くても、
僕ら日本人と同じように、喜び、怒り、哀しみ、楽しむ生き物なんだな、と、気づきました。
みな自らの家族を愛し、美しいものを見ては心震わせ、美味い飯を食べて顔をほころばせるのです。
↓NYカウントダウン 年明けの瞬間
そしてこの旅を続けていて日々多くのことを知り、感じ、歩いてきましたが、
人々の「祈り」ほど、尊く、平等で、根源的なものはないなと、何度となく思わされました。
私は無宗教ですし、祈ろうにも祈れない、瞑想しようも別のことで頭が埋まるような雑念と邪念の塊ですが、だからなのか、だからじゃないのか、それすら分かりませんが、人々の祈り、や、人々の想い、にとてもとても胸を打たれました。
人って、自分が思っているよりも、もっともっと美しくて平等で根源的で、尊いもの、だなと思うのです。
2の話ともオーバーラップしますが、頭では理解していたつもりでいたことが、
実際の体験を通じて腹に落ちる、そんな一件です。
洗礼を受けているわけではないので「集会に参加」という表現に留めるのですが。
私は小さい頃にその集会に連れられ、キリスト教とは厳密には異なりながらもエデンの園に始まりモーセの十戒やバビロンの崩壊、キリストの誕生や磔刑、復活、といったお話を挿絵で見てきました。
そして年齢を重ね、そんなことすらすっかり忘れていました。
母は4年前に喉頭癌で亡くなりました。
発覚時には末期に近い状態でしたが、手術をして治療をすれば、痛みを伴いながらももっと人生を長く楽しむことができる状態ではありました。
そして、母は手術をしませんでした。
当時母がどのような心持ちだったかは分かりません。
ただ、母は、とてもとても心穏やかだったように見えました。
少なくとも私の前では。
まだ齢60代後半、まだまだ人生楽しめただろうに、そうした心持ちでいられたのは、私が勝手に思うに、強い信仰心があったからなのかなと思っています。
そんなことをエルサレムのキリストのお墓と言われる場所でふと思い出しました。
宗派も違うので私がそうするのはいけないことなのかもしれませんが、クリスチャンの方が手をつく横で、私は、、、何に対してかはわかりませんが、なんらかに対して、母を穏やかな心持ちにさせてくれたなんらかに、感謝の想いを捧げたのでした。
母は世界旅行が好きでした。たぶん。本人から聞いたことはないですがちょくちょく海外旅行してたのでまあきっと好きだったのでしょう。そんな母がベッドから動けなくなった頃に私が世界の絶景動画たちをムービーファイルにしてインストールして渡したiPad。
どれだけ見てくれたかはわかりませんが、喜んでくれていたと思います。私がこの旅で南欧~トルコ~中東にたっぷり時間を割き、イスラエル以降の旅程を急遽変更してできる限り多くの国を浅く広く駆け回ったのは、母が信仰しそして見ることが叶わなかった聖書に関わる景色、そして世界の絶景たちをできる限りこの目に焼き付けたかったからなのでございました。
■このブログについて
このブログをはじめたきっかけが、実はあります。
1.自分が数年後、ひいては年老いた際に、このブログをみて、当時の情景が視覚的に蘇るような記録を残したかった
2.今回の長旅を計画するにあたり数多くのブロガーさんの情報に助けられた恩返しをしたかった
3.もともと文章を書くのが好きだった
そんなところでしょうか。
私のブログが写真が多杉、かつどうでもいいようなシーンの写真カットが多かったりするのは1が背景にあります。
とくに大きな道の曲がり角を曲がったところ、とか、観光スポットに入る直前のシーンとか、
そういった写真は大事にしました。
2は特にMapsmeの情報にこだわりました。
世界旅行者は普段Mapsmeを使っている人が多いですが、GoogleMapとは微妙に表記が違ったりして情報を参照するのに手間取ったりすることが多かったもので。
3は説明不要ですかね。
毎日長過ぎる日記を書き続けていた背景はここにあります。もはや趣味です。
読者の皆様には大変なご迷惑をおかけしました。
そんなブログでした。
本旅を終えて、目的は達成されたので、このブログはこれで終わりです。
■今後について
昨日の日記の通り、私はとんでもない額の金額を使ってしまっているため、
可及的速やかに再就職先を探す予定です。
普通の社会人に戻ります。
ただ、約束はできませんが、
できることならばもう一度また、世界旅行をしたいと思っています。
世界一周になるのか、行けてない国を攻め直すのか、
はたまた万札引っさげて東南アジアでヒャホーウするのかはわかりませんが、
人生の中期目標として「旅の再開」を掲げていきたいと思います。
その折にはこのブログも更新再開する、かもしれません。
頭の片隅にでも、こんなブログが存在したことをご記憶に留めておいていただけましたら幸いです。
というわけで、
重ね重ねになりますが、
これまでこのブログを読んでいただいた稀有な皆さま、本当にお疲れ様でした。
そして、ありがとうございました。
皆さまの世界一周ボタンのポチやコメントに日々励まされ、
お陰様で534日もの間、世界旅行を続けることができました。
一人でも多くの方が、このブログを通して、
クスリ、、なりニヤっなり、
ちょっとでも楽しい気持ちになっていただけていたら幸いです。
そして世界の素晴らしさがちょっとでも伝わっていたらば尚更に幸いです。
またお会いする機会があるかどうかはわかりませんが、
もしその機会あらば、なにとぞよしなに宜しくお願い申し上げます。
ありがとうございました。
2019年6月6日
MaedaK
えっと、、
申し訳ございません。
マレーシアでマレー飯を食いまくる風の雰囲気出しておいて、
実は私、帰国しました。
クアラルンプールで乗り継ぎ、成田行きのフライトでした。
先日の日記はカンボジアラストカンボジアラストと書きましたが、
実は本旅ラストでもございました。
え、
ちょ、
マジで、
帰ってきちゃいましたーーー!!!
どうしましょう!?
キャーーー!!!
きゃっきゃ!!
534日間(たぶん)の旅路も今日で終わりました。
いや、実はもうちょっと東南アジアいる予定だったんです。
シェムリアップにはまだまだ遺跡がありますし、
カンボジアにもまだ見所があります。
プノンペンからベトナムのチャウドックに抜け、
ホーチミンからマレーシアに飛んでシンガポールまできゃっきゃしようと思ってました。
が!!
急ぎ帰国したのは、
アンコールワットを訪れてだいぶ私の中でいい感じに探求欲が満たされたのと、
まさかの
運転免許の更新です。
いえ、
私の誕生日は11/1でして、
昨年の12月末で更新期限を過ぎて失効しているのですが、どうやら「うっかり更新漏れ対応」というスペシャルサービスがあるらしく、海外長期滞在してる人はその半年後まで払うもん払えば更新間に合うそうなんです。
日本、ネ申。
いや、
もうこんな社会的底辺まで落ちぶれてる私が運転免許証なぞに拘る必然性は皆無なのですが、再就職を考えますとやっぱりアレですし、もっかい自動車学校とか通うお金もアレですし、なんならあれでしょう、自動車学校なんてピッチピチの若者と大学生共がわーきゃーきゃっきゃしてチュッチュするようなある意味フルムーンパリーみたいな感じじゃないですか。
そこにうん十万払ってまた行くのはちょっとわたしには悟り開くよりも苦行です。
というわけで、
今日はおうちに帰るまでが遠足ダゾ、
の通説に基づいて、本ブログ最後の旅日記を綴りたいと思います。
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クアラルンプール国際空港。
あった。
あってしまった。
私のフライト。。。
この旅行もとうとう終わってしまうんですね。
このフライトチケットは実はアンコールワットの第三回廊で取りました。
アンコールワットの勇姿に心震えるとともに、
なんというか、兼ねてからの憧れの景色を見れて、
腹が決まったんですよね。
そしてアンコールワット周辺は電波入らなかったのに第三回廊だけ電波入ったので、
「今かな」と。
こればかりは直感です。
いや、運転免許の件があるので帰国日のデッドラインが決まってたわけで
さっさととっとけよって話なのですけども。
で、
電光掲示板にはゲートC35書かれてますが、地図見たらなんだかめっちゃ遠い。
これバスとか乗ってターミナル間を移動するのかしら。
搭乗開始まであと1時間。
まあさすがに間に合うでしょう、なんて思ってたら
まさかのコンコースにダイレクトにモノレール。。!!
す、すごいクアラルンプール。
あっという間にターミナルCです。
搭乗時間まであと1時間。
ここで賢者は楽しく優雅にラウンジに行くべきところですが、プライオリティパスを潰してしまった愚者の私は大人しく身銭切ってマレー飯。それが昨日の日記のナシラマでした。
はいC35ゲート。
Naritaって書いてます。
あの飛行機乗ったらもう日本です。
チケット
日本人だらけ。
喧騒の中から日本語聞こえるとつい聞き耳立ててしまうのはもう寂しがり屋の長期旅行者共通の病だと思うのですが、こうも日本語が飛び交うともう頭の中が混乱します。頭が勝手に聞き耳してしまうのです。
おっさん三人衆の「昨夜誰が一番早く寝た?」話とかどうでもいいんだってば。
はいライドオーン。
Wi-fiありー。
雑誌が日本んんん。
アナウンス日本語ありー。
モニターの映画に日本語吹き替えありー。
そしてまさかの
機内食おにぎりぃぃぃ!!
キィィィ
こやつらどんだけ日本感煽ってくるねん。
おいちいでしゅ。
Wi-fi有料でしたけども。
しかも2ドル50MBとかだったかな。
私からしたら50MBなぞ秒で瞬殺です。
ネト厨なめんな。
さて、
飛行機は離陸直後からなかなか揺れが激しかったです。
もう今さらも今さらですが、
私、実は飛行機が嫌いです。
旅の前半は平気だったんですけど、乗れば乗るほど怖くなりまして。もう極力飛行機乗りたくないのです。実は。
で、離陸までに時間かかっていた間に映画でも見はじめたのですが、そんななのに関わらず映画は後腐れないようなものを見ようと思ってインデペンデンスデイの続編?みたいなやつみたら飛行機(戦闘機)ぼっこぼこ墜落してて思わず離陸最中に一時停止しました。
だって外、雷ビッカビカなんですよ?
なぜあれが飛行機に当たらないと言い切れるのか。
その後はなんだかんだでインデペンデンスデイを見届け、
気がつけば朝でした。
フライトナビゲーション。
、、、これ、まさかのもう日本領空ですね。
おお。
おおおお。
朝飯。
いやもう腹一杯だよね。
その後またなんらかの映画を見てたら
いきなり機体が激しく揺れ「ななななに!?」と思ったら
着陸でした。
なんという感慨のなさ。
ただ、
眼に映る光景がいちいち胸を騒ぎ立ててきます。
SMBC!
MAKIE!
いやもっといい風景あったんですけども。
周辺が日本人だらけで緊張しちゃって。
ちょっとそこらじゅうでパシパシ写真を撮るのがためらわれたのです。
いきなり日本社会に飲まれている私です。
ターミナルに並ぶJAL機。
やはりここは日本なんですね。
っなーーー!!!
こ、
これちょっと、嬉しい。
おかえりなさいですって。
そして以前もそうだった気もしますが、
入国審査は機械で自動顔認証でピピピのピでした。
なのに係員は3名ほどスタンバイして「こちらでーす」「そこにパスポートをおいてね、それでね」とかやってます。
ジャ、ジャパン。。。
機械三台しかないのの三人投下したら本末転倒でしょうに。
なおこのままいくと入国スタンプもらえないので、カウンターで別途入国スタンプをください、と申請しました。
日 本 入 国 ! !
よかったー入国できて。
手前のセキュリティゲートでインド菌過多で入国拒否されるのではとハラハラしてたのです。
あとこの後の免許手続きにおいても入国スタンプが必要だそうで、スタンプGetはマストでした。
そして入国手続き後、
ここ。
このバゲッジクレームに降りる階段のとこ。
この「おかえりなさい」がマジで沁みた。
ああ、ほんとうに帰ってきたんだなって、ジーンときた。
ちょっと、グッときた。
そして
税関では職員が
「はいこちらですよー!」
「私はこれこれこういう者です。あれそれそういう目的でカバンの中身ちょーっとだけ見せてもらいますねー!」
「はい!結構です。申し訳ございませんでしたー!」
なにこの職員。
もうカルチャーショックです。
ひとまず日本税関、結構こまかくチェックするのね、ってのに驚きましたけど、それ以上にこの礼節。世界一だわ。
どこの国も無言でカバンの中グッシャグシャにした挙句しまいやしないわお詫びも謝礼もないわ挙句「これどこで買ったのー笑!」などと抜かすカス共ばっかでしたもので。
中国とか最低でしたわ。あ、隠字使うの忘れた。
なんかもう色々感激しすぎて
どうでもいい写真を撮影禁止エリアで撮って怒られたりして。
ということで、マエダさん、
帰国!!
※親にしか帰国日伝えておりませんで。インフォメーションのお姉さんに撮ってもらいました。
いやー。
こんな感じの写真を撮りたかったんですよねー
このためだけに襟付きシャツときれいな白Tを一枚リュックの中に残しておきました。結果、カバンの中で潰され続けてヨレヨレです。
さて、
まずは以前使ってたSIMカードもカバンの奥底から無事発見。
出発前、回線解約しようとしたらアンビリバボな解約金だったので月額最安プランに変更して契約は継続してました。
現金、
安心と信頼のちばぎんでVISAキャッシングです。
これでひとまず出発できます。
本日の予定は以下です。
・姉のとこに立ち寄り預かってもらってた住民票をもらう
・運転免許センターで免許証更新
・実家へ
・我がぬこタソと面会
・父ヒサシが今日釣った魚を召す
息子が一年半ぶりに凱旋帰宅するというのに父ヒサシは悠々自適に釣り遊びしているという我が家です。
ヒィイイイイイイ!!!
成田空港駅から姉がバイトしてる西千葉まで780円んん。。。
タイだと220バーツ。。。パッタイ7杯食える。。
ミャンマーだと11000チャット。。。モヒンガー22杯食える。。。
ああなんか、そうですよね、こんな感じですよね。
貧乏人なので成田エクスプレスではなく鈍行で向かいます。
この、総武線快速のガタンゴトンのリズム、身体は覚えてるもんですね。
※我が街君津から東京までも走っているのです。
な、生茶。。
(こういうのもこの国では盗撮でしょうか)
永遠に改装工事するんだと思っていた千葉駅が改装工事終わっててどこの空港かと思った。
はい西千葉。
ここで姉は週一、マッサージ師見習い?かなんかでお手伝いバイトしてるそうです。
以前も一度触れましたが、我が姉は専門学校でパティシエの資格を取りケーキ屋で働いた後にパン屋でバイトして週末は自ら編んだカゴと焼いたパンケーキをフリマで売り連休は全国のフルマラソンに参加し将来は仙人になりたいと言っている常人の域を凌駕している我が姉ですが、いまはマッサージ師も兼業しようとしているそうです。
我が父が不憫です。その点においては私も共犯なんですが。
ほんともう、どこ目指してるんでしょうかあの人。
姉発見。
マジでマッサージ師として働いてました。
姉とはラオス以来です。
父ヒサシが君津で取得した住民票を5/29に千葉に住む姉に速達で発送し、それを私が今日5/30朝に西千葉で受け取りこのあと幕張(千葉)の免許センターで使うという、この我が家の連携プレーはお見事と言わざるを得ません。
さて、
ここ西千葉は実は私が大学時代を過ごした街だったりします。
せっかくなので、母校を散歩。
内容はちょっと内輪るので割愛します。
ひとまず
今も昔もなのは北京亭と甘太郎くらいでした。寂しいもんですが、街が生きてるということだと思うのです。
ヘアカット約350バーツとかなにがどう激安なのか。怒りますよ。
京成線みどり台駅。
から幕張本郷駅へ。
からのバス。
運転免許センター。
うん、
いけてる。
思った以上に私、日本再デビューの一歩を踏み出せてる気がする。
って誰とも会話せず券売機で切符買ってるだけだけど。
運転免許センターは冷房が効き、
入ったらすぐに係員が
「今日はどういったご用件で?」
と問われ、め、めんきょをし、しっこうしまして。。と申すと
「じゃあこれとこれとこの書類の、こことこことここに記入して、写真はあそこでとって、11番の窓口に行ってくださいねー!」
ジャパンクオリティ。。
至れり尽くせりです。
トイレには
トイレットペパンティーヌがあり、
ウォッシュレンティアーモもあります。
あ、トイレットペーパーはトイレに流すんですね?つい紙くず入れを探してしまう。
免許更新手続き自体は難なく進み、
30分の優良講習を受けて
無事発行されました。
手数料4450円。
手数料4450円。
これが日本。。。
日本のサービスは時に過剰(その分高い)すぎるなんじゃないか、とはよく言われることですが、改めて実感した一件でした。
ところで講習のテキストよりこのページを抜粋。
◾︎あおり運転防止
・車間距離不保持
・不必要な急ブレーキ
・幅寄せや急な進路変更
・執拗なクラクション
おいおいこれ全部当てはまんじゃねーかタイカンボジアベトナム。
と思わされざるを得ない。
さ、目指すは一路、我が家です。
海浜幕張駅周辺。
蘇我駅で京葉線から内房線へ乗り換え。
ホーム変わるとき自然と線路に足が向かってしまった。
いや、ここ最近は駅のプラットホームは線路は歩いて渡るものだったので。
はい君津駅ー。
ようこそ房総へ。
そうですようこそ房総です。
駅。
接写してますが駅周囲は絶望的な田舎です。
駅前にあった私の青春時代、博文堂が潰れてた。
逆にローソンできてたり。
家までの道中にコンビニができてくれて大変嬉しい。
商品ラインナップも程よく新しくなってますね。
懐かしの顔ぶれもあれば、新顔もあれば。
てかあれですね、ペットボトルコーヒーってマジで流行ってるんですね。
なんだか日本の日常感がちょっとずつ蘇ってくる。
我が家のエリア。
毎日登ってたこの坂を上がっていく。
そして
帰って、きましたーーーーー!!!
一年半ぶりに再開する我がぬこ。
唐突にいなくなった飼い主を忘れてはいなかったように思います。
てかめっちゃ大きくなっとる。
鳴き声もなんだかぶちゃいくになってます。
うちのぬこコレ。
遊びすぎて疲れたようでプリンターの上で寝落ち。
凱旋宴。
令和!!
アサヒが令和仕様じゃないですか高まるぅー!
父ヒサシが今朝釣ってきたアジとカワハギです。
ふきの炊き込みご飯。
まあいつも通りっちゃいつも通りなのですが、
それが良いんだと思います。
はい、
というわけで、以上が私の534日間でした。
なにはさておき、
皆さま、ありがとうございました。
長ったらしいこんな日記をお読み頂いていた皆さまに、深く感謝申し上げます。
そして旅前、旅中、そしていまも、数多くの方々に助けていただきました。
私一人で気ままにぷらーっと出かけた本旅ですが、
結局皆さまにお力添えをいただきながらの旅となりました。
私は大層な幸せ者です。
ありがとうございます。
頭の中は、まだ帰国した実感が湧いてないなぁ、という想いもあれば、TVつけると日本語で日本語のニュースが流れまくるんですけどもちょっとなにこれ!、だったり、超大量の年金未納通知に手が震えたり、
うまく言えませんが、なんだか落ち着きません。
旅ブログはこれで終わりです。
ただちょっと私として色々振り返りたいので、
もう2,3記事ほど振り返り記事をあげて、当ブログを締めくくりたいと思います。
改めまして、
これまで応援いただいた皆さま、本当にありがとうございました。
私、無事帰ってきましたっ!!
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ーーー
ここカンボジアは内戦で地雷がたくさん埋まっている、ということはなんとなくながら知っていました。でもそれ以上のことはあまり知りませんでした。
カンボジア内戦。
ここプノンペンを中心に、
当時の国民の1/4にあたる約200万人が当時亡くなっているという事実。
この旅に出るまで一切知りませんでした。
その惨劇の一部であるこの場所、
この博物館の名はトゥール・スレン虐殺博物館。
当時のポルポト政権クメール・ルージュによって極秘に運営された強制収容所。12,000〜20,000人もの人々が収容され、確認された生存者は12名。
今日はそんな負の遺産を見学の後、
フライトでカンボジアを出国します。
カンボジア最後の最後になかなかハードな経験となりました。
ちょっと想像以上に内容がハードなので、閲覧されるかどうかは御一考ください。
――――――――――――――――――
▼徘徊メモ
・行き先:プノンペン市内
・手段:トゥクトゥクとか
・料金:まちまち
・時間:ー
↓プノンペン地図マップ
(二行目はMapsme表記)
・オレンジ:バス到着場所
Sorya bus station PP
おそらくSorya社のバスオフィス
・青:宿 ドミ一泊3.3ドル
Panorama Mekong Hostel
赤ピン、上から順に
・ワット・プノン
Wat Phnom Pagoda
・ナイトマーケット
Phsar Reatrey Night Market
・セントラルマーケット
Phsar Thmei
・王宮
Royal Palace
・オルセーマーケット
Phsar Orussey
・独立記念碑
Independence Monument
・トゥールスレン博物館
Tuol Sleng Genocide Museum
――――――――――――――――――
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おはようございます。
プノンペンラストモーニンです。
時刻6:00。
出国に向けて荷物整理したり日記書いたり。
トゥールスレン虐殺博物館は8:00オープン。
その後に郊外にあるキリングフィールドへ向かい、14:00から予約してあるちょっと豪華めマッサージを受けて18:00のフライト、
という、
昨日とは打って変わっての盛りだくさんスケジュールです。
いや、昨日も元々は盛りだくさんだった、というかトゥールスレン虐殺博物館は昨日行く予定だったんですけどもね。
で、
まずは朝飯を喰らいにまいりたいと思いまーす。
お目当ての場所オルセーマーケットまでGrabトゥクトゥク(トゥクトゥクもあるのです)で5,000リエルだったのですが、
宿前のトゥクトゥクがスリーというので、スリーサウザンド(リエル)?と確認して乗車。
あら、
意外と流しの方が安い?
と思いきや
オルセーマーケットではなく
セントラルマーケットに連れていかれ
「スリーダラー!」
とかニヤニヤしたのでその場で捨て置き
Grabトゥクトゥクをそいつの目の前で呼び寄せて乗車してやりました。
藻前のようなカス虫はこの資本市場から消え失せれば良い。
そんな大人気ない私がやってきましたは、
朝は朝メニューになってました。
ただ内容は相変わらず麺推しです。
注文はメニューのセンターポジを我が物にしていたNoodle soup with pork。
安心と信頼、そして安定のヴィジュアルです。
ああもうこの麺を持ち上げたときに広がるさわやかなガーリック風味。
そしてもうこのどうにかなっちゃいそうなこの美味さ。
どうしたらそんなに美味しくなるの?
おかげさまで私マジで涅槃の5秒前です。MN5。
前回写真撮りそびれましたがこの
付け合わせの甘辛タレがもはや究極魔法です。
これをスプーンに乗せてスープ上でちょっとだけ解いて肉乗せて召しますともはやアルテマ。
強烈な美味が次々と襲い掛かってくるメテオです。
ああ!! 悦!!
仏僧さんも夢中になる美味さです。
いやー、
ここ素晴らしい。
時間あらば空港行く前にもう一度来たい。
なーーんておふざけはさておき、
到着です。
見た感じ、古い学校のような建物ですが、そうなのです。ここは高校の校舎を利用した強制収容所だったのだそうです。
ひとまずこのトゥールスレン強制収容所についてWikipedia先生におさらい頂きましょう。一部追記修正してます。
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S21は、1975年〜1979年のクメール・ルージュ(カンボジア共産党)支配下のカンボジア(民主カンボジア)において設けられていた政治犯収容所の暗号名である。
稼働中は存在そのものが秘密であったため公式名称は無い。現在は地名を取ってトゥール・スレンと呼ばれている。
2年9か月の間に14,000~20,000人が収容されたと言われ、そのうち生還できたのは8人(現在身元が分かっているのは7人)のみであった。
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生存人数が冒頭で私がパンフレットから拾った12名と食い違ってますが、とにもかくにも大変な惨状で公式な記録が錯綜しているんだと思います。
この惨劇の首謀者である政党クメール・ルージュおよび主導者ポルポトについてもちょっと背景をおさらいです。
・1953年、ノロドム・シハヌーク国王のもとでカンボジアがフランスから独立。
・1970年、政治家ロン・ノルによるクーデターで王政は廃止。クメール共和国が成立。
・同年、ベトナム戦争の中でアメリカ軍&南ベトナム軍が北ベトナム軍との戦争の過程でカンボジア領内に侵攻。米軍の空爆は人口密集地域を含むカンボジア全域に拡大され、空爆開始からわずか一年半の間に200万人が国内避難民化。
・この事態を受けてシハヌーク国王は亡命先の中国北京でカンプチア王国民族連合政府を結成、中国共産党の後押しで反ロン・ノル諸派の統一戦線を呼びかける。以前より反政府闘争をしていた組織クメール・ルージュもこれに同調したことで農民層の支持を得、1975年にプノンペンを制圧。民主カンプチア国を設立した。
当時のカンボジアは国王を追放したロンヌルによる腐敗政治と米軍による強烈な爆撃(米軍は日本に投下した量の1.5倍の爆弾量)で大変な惨状となっており、人々はそんなカンボジアを救ってくれると期待してポルポト率いるクメールルージュを歓迎したそうです。
クメール・ルージュが目指した社会は「原始共産主義社会」。
資本主義、都市文明を徹底的に廃絶する、原始時代のように農業だけをやってこうよ、という社会だそうです。
私有財産は没収、通貨は廃止され、教育機関、医療機関、銀行は全て廃止、宗教も否定されて寺院は破壊されたそうです。
これが大方針。
そして高度な知識や教養は政策の邪魔になるとして、教師、医師、技術者は片っ端から殺害。眼鏡を掛けている人、文字が読める人、時計が読める人、そしてその家族もひっくるめて、例外なく殺害されたそうです。
その殺害の過程として、
身に覚えのない罪を自白させるための拷問施設がここ、通称S21。
そして自白が完了した人物はその場で殺害、ないしは現在キリングフィールドと呼ばれる郊外の区域で殺害、死体置き場に投げ込まれた、という歴史です。
S21という名の通り、
カンボジアには当時167の強制収容所と343の処刑場があったそうです。
もうこの時点で理解の範疇を超え過ぎです。
1975年て。
たった40年ちょっと前ですよ。
なんならうちの姉とか生まれてます。
そんな現代に、
こんなことが現実に起きていただなんて、あまりにも衝撃的。
そんな場所です。
百聞は一見に如かず。
トゥールスレン虐殺博物館へ足を踏み入れてみましょう。
オーディオガイドは絶対借りた方が良いです。日本語あり。
そしてここのオーディオガイドは内容がかなりしっかりしてます。
オーディオガイドさんは敷地内の周り方から説明してくれます。
そして重ね重ね
「体調が優れなくなった場合はいつでも休憩頂いて構いません」「無理をせず、見学をしてください」と言ったアナウンスが入ります。
このすぐ向こうは外界な訳ですが、
当時は原始共産主義のためにプノンペン市民は地方の農村へ強制送還&強制労働させられており、街はゴーストタウンだったそうです。
ここには14人のお墓があります。
ベトナム軍がプノンペンを奪還した後に彼らはこのS21を発見したわけですが、その際に施設内にこの14名の死体が残されていたそうです。
カンボジアのこの気候。
発見当時の施設は強烈な死臭だったそうです。
かたやで施設職員は重要記録を破棄して逃走。その際に拘留していたこの14名も口封じに殺害したのでしょう。
一階は部屋の上部の窓格子が板で覆われていました。
この一階が主な拷問室だったそうです。
当時この強制収容所は極秘中の極秘の存在であり、拷問中の絶叫を外に漏らさないための対応だそうです。
ベッドの下が黒ずんでいるのが分かるでしょうか。
血痕です。
当時の処刑は銃声が外に漏れぬよう、撲殺、刺殺が主だったそうです。
このベッドはベッドが変形してしまっています。想像を絶する拷問だったのでしょう。
・質問された内容には即時に返答。
・何があっても叫び声をあげてはならない。
・規則を破ったら鞭打ち10回、電気ショック5回。
など、
書かれているそうです。
当時の人々は突如としてクメールルージュの組織に拘束され、目隠しされ、行き先も告げられず「罪を犯したから」と連行されてきたそうです。
生存者の一人、絵描きアーティストのボウエン氏(名前うろ覚え)は連行時に「何の罪ですか?」と組織員に問うと「クメールルージュは罪人しか連行してない」としか返答されなかったそうです。
各部屋には当施設発見当時に死体となっていた14名の発見当時の写真も展示されています。一部顔は隠されていましたが、人間とは思えない痩せこけた身体がくしゃくしゃになってベッドに放置、ないしはベッドから崩れ落ちていました。
罪の自白供述を強要させるのに使われたそうです。
なお自白内容はクメールルージュ政権の敵対者であることを自白させられていたそうです。どこぞの国のスパイであるだとか、CIAの一員であるだとか、当時の収容者からしたら「?」な内容だったそうです。
ここでは絞首刑としてではなく、拷問用に使われていたそうです。
人をここで逆さに吊るして尋問し、意識を失ったら
この壺に頭から突っ込ませ、意識を取り戻したらまた尋問を再開したそうです。
そして壺に満たされていたのは受刑者の排泄物。
B棟。
ここは写真による展示が所狭しと並んでいます。
記録として入所者の写真が撮られていたそうですが、これで全員かどうかは誰にもわからないそうです。
クメールルージュがプノンペンを制圧した際の様子。
先ほど記載の通り、当時のカンボジアは腐敗政治と米軍空爆により大変な惨状だった背景もあり、当時の人々はクメールルージュを厚く歓迎したそうです。
そしてその後すぐに農村への強制退去を命じられ、逆らった人はその場で処刑、という惨劇が始まります。
強制収容所に連行された人々の服。
連行された人々はその場で裸にさせられたそうです。
オーディオガイドさんは「人々から誇りと尊厳を奪う重要な行為」だったと言ってました。
拡大するとわかりますが、
年齢は20代前半〜10代未満。
文明色に染まってなく読み書きができない子供が重用されたそうです。
そんな子供たちは、地方から連れてこられ、この場所で自白供述を引き出す拷問の手法を学び、大人たちをその手に掛けたそうです。
カンボジア人がカンボジア人を処刑する。
そして職員である彼らもまた、最終的には処刑されました。
クメールルージュの原始共産主義理念の下では機械を使わない原始的な農業です。
みな薄いスープのみの配給を受け、朝3時から夜遅くまで働いたそうです。
その辺の木からマンゴーを取ったら処刑。
彼らの大半は都市部から強制退去させられた人たちなので当然に農業スキルなんてなく、まともな収穫は得られなかったとのこと。
そんな環境なので人々は飢餓に苦しみ、
上記の虐殺も含めて200-300万人もの人が亡くなったということです。
彼は仲間と一緒に船旅をしており、
カンボジア領海に入ったところで拘束されたそうです。
3人の友人のうち一人はその場で殺害。
残った二人はここS21で拷問の対象となりました。
この右側のケリーハミルさんは当時の尋問でCIAのスパイであると自白させられるのですが、上官はだれか、という質問に対し「カーネルサンダース」と答えているそうです。
そしてスパイ仲間の連絡先として自宅の電話番号を供述し、その他供述には家族にしかわからないようなキーワードを散りばめ、供述書にメッセージとして想いを残したのだそうです。
オーディオガイドでは彼の家族によるお話が紹介されていました。
ケリーハミルさん、当時27歳。
他にニュージーランド、イギリス、フランス、アメリカ、など多くの外国人がここで処刑されたそうです。
当時海外で働いていたカンボジア母国のエリート達には政府から帰国要請レターが出されたそうです。多くの人は「母国の革命のために!」と帰国して拘束され、ここで処刑されたそうです。
奥の部屋の床には独房の跡が。
当人に似ていないと判断された際は製作者は処刑されたそうです。
この部屋には(自白強要された上で)犯罪者認定そして処刑された人の記録写真、つまり殺害完了写真が大量に掲示されてました。
撮影禁止でした。
なおあくまで処刑においては犯罪者認定、
つまり罪の自白が必要とされていたそうで、
自白に至る前に病死した人に対しては職員が怒り狂ってその死体を殴る蹴るしたそうです。
自白を得れずに死なせてしまうとその職員が罪を負うこととなり、公に処刑されるからです。
そんな背景なので、
大怪我をした人は医者が面倒を見るんだそうです。
といってもまともな医者は処刑済みなので、医者として役目を与えられた人たちが患部に塩水をかけて小さな野菜を薬として与えるのみ。
そして患者の体調が回復したらまた拷問を再開するそうです。
C棟。
ここは有刺鉄線による網が残されていました。拷問に耐えかねた収容者が飛び降り自殺するのを防ぐためだそうです。
内部は当時の独房が残されていました。
一方で雑居房として60人を一つの拘束具で収容する部屋もありました。
独房の存在理由は拷問に連れ出しやすいから、だそうです。
夜、寝返りを打つと鎖が音を立てます。
それだけで鞭打ちされたそうです。
彼は機械工で、タイプライターの修理が出来ると理解されてからは技術員として扱われ処刑を免れたそうです。
建物内の随所に血糊が残る。
オーディオガイド曰く、「収容者の中で最も有名になった収容者」、ボパナさん。
容姿端麗の彼女。
フランス語も話せたそうです。
彼氏さんがクメールルージュの幹部となったのですが、その後の彼らのラブレターのやり取りがバレてしまい二人ともS21へ収容、処刑となったそうです。
ボパナさんは「クメールルージュ幹部を誘惑した魔女」として取り調べを受けたわけですがその調書は500ページにも及ぶそう。みんなしてボパナさんに取り調べをしたということです。みんなボパナさんに興味津々だったようです。
その奥には先ほど記載した生存者の絵描き、ボウエンさんが描いた当時の様子がいくつか。
60人拘束具、って、
実際に目の当たりにすると恐ろしくてしょうがない。
わかっちゃいるけど「人間的扱いをされない」とはまさにこのこと。
稀にこの部屋にはシャワーで水を撒かれるそうですが、こんな環境なのでみんな皮膚病に侵されたそうです。
死んだ人はしばらく放置されたそうです。
周辺の人は空腹に耐えかねて死体に寄ってくる虫を食べたそうです。
先述の通り、殺害は鈍器か刃物です。
こちらは当時のカンボジアにおける光景。
同、イスラム教徒。
カンボジアにはチャム族という少数民族がおり、彼らも迫害の対象なり多くのモスクが破壊されたそうです。
キリングフィールドはその名の通り、処刑場兼死体遺棄場です。
このS21で自白成立した人はここへ送り込まれ、斧や刃物で殺害されました。
赤ん坊は大樹に叩きつけて殺したそうです。
この絵では放り投げられた赤ん坊がゲームのように撃ち殺されています。
そんなケースもザラにあったのでしょう。
クメールルージュ下のカンボジアの地図。
赤い文字が強制収容所ならびにキリングフィールドの分布。
当時167の強制収容所と343のキリングフィールドがあったそうです。
朝は9:00〜10:45、
昼は15:45〜16:15、
それぞれ別の映像を上映しているようです。
機械工、大工、彫刻家、アーティストx2、翻訳家、エンジニア。
約20,000人が収容されて結果この7名。
※パンフレットとの生存人数差の背景は不明です。
以上が、
このトゥールスレン虐殺博物館で私が見学したものの一部です。
想像を遥かに超えていました。
これが戦後、
日本が景気絶好調のときにカンボジアで起こっていた現実だとは。
これ、
クメールルージュ後のカンボジアの人口分布図。
恐ろしいことになっています。
この事件はカンボジアの現在に計り知れないインパクトを与えてます。
オーディオガイドさんはメッセージの中で、
この事実を色褪せさせないために(=今後の人類の平和のために)、この事実を知り、語り継いで欲しい、というようなことを言っていた気がするのですが、なるほど確かにいち観光客にできるのはそういうことなのかなと。
そんな経緯もあって、
見学した展示内容を時系列にそのまま日記にしました。
長くなってしまい恐縮です。
アウシュビッツ強制収容所で日本人ガイドの方が仰っていたこと。
「もし自分が一般ドイツ人だったとしたらナチ党の政策に対してどうしていたか?」
ちょっとユダヤ人を迫害したナチとほぼ全ての自国民を迫害したクメールルージュとでは市民側の状況は異なりますが、もし自分がその場にいたとしたら、と考え出すと、この事件の恐ろしさ、独裁政治、情報統制の危険性が身に染みます。
対岸の火事と思えない、
そんな一件でした。
ちょっと、
もう、
つらたんなり。。。
この足でキリングフィールドまで足を運ぶつもりでしたが、やめました。
そのままこのカフェで、先ほど目にしたこと、ノートにメモったことをこの日記にしました。
キリングフィールドはまたの機会にします。
もっと東南アジアについて学びなおした上で、また来ます。
、、、ということで、
長らくの休憩の上で40ドルのラグジュアリーマッサージをかまし、
その足でやってきました。
オルセーレストランー!!(本日2回目)
いえね、
カンボジア通貨が余りまして。
ここで使い切る算段です。
1日3杯食っても足りないくらい食える。
ここなら。
店員さんがアイスティー出してくれるよね。
(しっかり課金されました)
Noodle soup with beef bawlです。
ああもうカンボジアラスト飯にふさわしい。
この甘辛味噌を溶かし込むスープがゼウス。
もう幸せ絶頂あげみざわ状態につき完飲写真を撮りそびれたのが無念です。
最高です。
無事カンボジアリエルを使い切れたのも我ながら大拍手です。
使い切るために無理やりおみや買っちゃったりして。
プノンペン国際空港。
市内オルセーマーケットからGrabトゥクトゥクが4ドルとめっちゃ安かったのでトゥクトゥクりました。
最近だと列車やバスなんかもあるそうです。
空港入り口でドライバーが車両通行料1ドル徴収されてましたが料金はGrabの表示通り4ドルでした。
10ドル払ったらお釣りまさかの1ドル&5ドル分のカンボジアリエルキター!!
どうすんのよこれ。
カンボジア出国したら紙くずなのよ?
なお空港まではぼちぼち渋滞ありながら30分強でした。
ふふ。
クアラルンプール行きです。
えっと、いや、あのですね、
マレー飯がどうしても食べたくて。
待ち時間で先ほどのオルセーレストランのおみやの肉まんを食べたり、
※ぷりっぷりで神的美味的神。
先ほどのトゥクトゥクにやられた5ドル分20,000リエルを使い果たすべく空港の売店で胡椒パックを買ったらまさかの1ドル4,200リエル換算で21,000リエル必要となりまた無駄に1ドル札を消費しリエル札が戻ってくるトラップに掛かりもうリエル札だれか欲しい人ー?
機内です。
海のシルクロードの中継地点として大いに栄えたマレーシアは多民族国家。イスラム教仏教キリスト教入り混じる同国マレーシア航空の機内は多種多様です。
ヒジャブを纏った女性がグググっと増えました。あとインド人。
フライトはわずか3時間です。
18:30発21:30着。
夕ご飯。
お弁当みたいでちょっと高まる。
まあ3時間もあるしー、とかやってたら飯を回収されてしまいました。
どうやらマレーシアはカンボジアより時差が1時間早く、フライト時間は実質2時間だったようです。
メニュー左下のナシレマというマレー料理、やらしてもらってます。
チキンカレーと、赤いのは辛めの佃煮、ご飯はなんとココナッツ風味のライス。
どことなくカレーにはインド感があり、
カレーと佃煮の辛さにタイを感じる一品です。
辛旨、いや、ちょっと辛い。。!
でも美味い、そんな感じでした。
いやー、マレー飯、
奥深そうですねー。
お値段27リンギット。
1リンギットいくらか分からず適当に注文しましたがやはりここは空港。800円くらいでした。ジーザス。
ということで、
本日の日記はここまでです。
明日はこのクアラルンプールから日記を再開しますー。
オークン!
でしたー。
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