#337 ただでは出国できなかた。inオマーン(4) 2018.11.15
- 2018/11/19
- 07:00
本日はオマーン出国日。
ただしフライトは21:30。
フライトまでの時間がただただ暇なので、
ちょっと乙な私はペルシャ湾を眺めながらコーシーでもやろうと思っておりますよ。
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▼徘徊メモ
・行き先:マスカット市内
・手段:バス
・料金:まちまち
・時間:ー
↓マスカット地図マップ
(英表記はMapsme表記)
・今日目指すQurmビーチはAl KhiwayrとRuwiの間あたり。
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本日夜のフライトにてオマーンを出国です。
が、四日間お世話になったホストさんは出勤時間がチェックアウトタイムということで朝8:00にお別れ。
結局何事も無いままでした。
(あ、なんか期待してたみたいな書き方になってしまいました。)
さて、あとあと12時間もあります。
重たい荷物もご一緒です。
ひとまず地図で見てちょっと良さげな海辺あったのでそこを目指します。
Qurm地区にあるビーチです。
「良さげ」の判断理由はただ一つ。
『スタバがある』ただそれだけです。
今さら気づいたのですが、マスカットのバス停は、地図上にバス停が存在しても、上り下りでバス停止まったり止まらなかったり、バス番号によって止まったり止まらなかったり、で、難しいです。
今回は宿近くのAl khuwayrハイウェイバス停からQurmバス停に行きたいのに来るバス来るバス「そこには止まらん」と言われたのでシェアタクで近くまで行きそっから徒歩4km歩きました。
ぜんぜん近くないじゃんか。
まずハイウェイ渡る歩道橋探すの一苦労だし。
ビーチっぽい道を見つけて30分歩いたらプライベートビーチに阻まれ出戻りさせられたり、
お待たせしました。
透明度が高くて綺麗です。
そしてお目当てのスタバはもうちょい先なので今しばし歩きます。
インターコンチ先生の圧力でしょう、
小洒落た細工が増えました。
うん。。誰もいない。
でも良いのです。私は雰囲気を味わいに来たのですから。
こういうね。
クーラーガンガン効いた室内から眺める海ですよ海。
これぞ非リア充の悦ですよ悦。
※ちなみにかぷちーのが高すぎたのであえなくジュース。これでも一本400円くらいしてる。
なんとこのスタバ、
電源もWi-Fi(要電話番号)もありました。
お陰様で5時間も寛げました。
もっと居座りたかったのですが、1時間に一回アクセスが切れるWi-Fiがとうとう6回目にして繋がらなくなりました。Wi-Fi制裁です。
この5時間、
次の次の次の国を調べたり、
カウチサーフィン利用を本気出すためにプロフィール欄作ったり、
オマーン出国ヒャッホーウとFacebook投稿したり、先日投稿した美食ランキング考えてみたり、と
まあ優雅に暇潰してました。
Wi-Fi途切れた後、よく考えたら空腹なことに気づき、バス停までの道中にあったショッピングモール的なところへ。
閉鎖中。
なんでやのん。
私は今、花より団子です。
もうかなり歩きましたよビーチから。
5kmは歩いたんじゃなかろうか。
そしてこのマック。
スタッフが過剰にフレンドリー。
タッチパネル注文をしているとすかさず登場し、いちいち説明を入れてくる、だけでなく、私の選択に対し「Goood♡」「Soooo nice♡」などと合いの手を入れてくるヘビーパフォーマー。
私がビックマックに「No add on」を選択したら「Really!?」と信じられなさそうな顔してました。いちいちうるさいよ。
五臓六腑に染み渡る。。
そしてよく見てください。トレイの右。
マックチキンのおまけ付きです。
いまマックのキャンペーンで一定額以上頼むとマックチキンが無料で付くのですが、このキャンペーンの広告がいまマスカットの街中に露出されております。
いまこの街はFREE!と書かれた骨つき肉の看板と胡散臭い爺さん(あ、言ってしまった)の看板だらけです。奇怪です。
骨つき肉。
なんてやってるとハイテンション店員が
「ハーワイユー!?ハウイッザチィッキィ〜ン!?」「イフユーハブエニープロブレム、プリーズコールミー、マイネームイズほにゃららん♪」
と唐突に現れては消えていきます。
私のパーソナルスペースに入ってこないで下さい。
ああ、もう3人いる店員が同じこと繰り返すカオスっ。
17:30。
ぼちぼち空港へ。
バス停でバスを待ち、
やってきた1番バスは派手に空港を通過し、
バス運転手にAirportAirport言うたら空港の裏側(10km以上先)で降ろされその辺の人に聞いたら「あそこにバスが来るよ!」言われて本当に来たバスに乗ってるのが今。
焦りのピンボケです。
いや、正しくは「1A」「1B」「8」のいずれかに乗れば空港行けるのですが、オマーンが日々進化してるからでしょうか、GoogleMapバス路線検索は微妙にバス停が実態とマッチしてなく、ちょっと焦りましたよ。
大・混・乱。
えっとですねー。
私、次の国クウェートなんです。
で、
クウェート航空のカウンターに並んでたんですねー。
で21:30フライトなのに、20:30になってもチェックインカウンターがオープンしなくてー。
で、
唐突にカウンタークローズ。
係員がシッシッみたいに言ってます。
ちょ、おま、アラビア語分かんねーし。
ちなみにイングリッシュプリーズ言うたら英語で回答され理解できませんでした。
まあそりゃそうでしょうけど。
キャンセルゥ!?!?
衝撃です。
オマーン・クウェート間なんて天気悪くなる気候じゃ無かろうに何故キャンセル!?油田炎上!?
そしてクウェート航空スタッフからの指示は「あっちの方(チェックインカウンターフロアの外)へ行って待ってて」だけ。
みんなワーワーギャーギャーやってますが全部アラビア語ね。ちょっと私にもそのワーワーギャーギャー頂戴!
ひとまず訳もわからず他の皆さんについていき、空港の雑踏で座り込み。
実は私、内心ワクワクしております。
もうこんな時間ですし?
再手配されるであろうフライトは明日朝でしょうし?
そしたら普段の私の予算の100倍級のホテルでしょうし?
おモーニングぶっふぇーなんつうシャレオツなのかましちゃって〜!
夢が膨らみます。
かつ、
クウェートを訪れる予定の明日11/16はなんとうっかり金曜だったんですね。
金曜はイスラム教の礼拝日。何から何までクローズで観光できやしないのです。
日付がずれたらコレ最高!!
なんて妄想してたら周りの人だかりがちょっと人数減ってました。
みんなトイレとか飲み物買ったりしてるのでしょう。
はぁ、
暇だなぁ。
しばしの後、
私もちょっとぶらっとしてみることに。
ウロウロしてると、
先ほどのクウェート航空職員を発見。
それを取り囲むようにバングラ人共が「ダッカ!ダッカ!」叫んでます。
そうか、君たちはダッカに行きたかったんだね。
ついでに私も軽く職員に、クウェートから先にトランジットする先の国について聞いてみると、
「え?嘘でしょ?なんでここにいるの?」
みたいなことを言われる。
わちゃわちゃし出す職員と、ウケるーとか言って写真撮ってる私。
職員「荷物は!?」
私「向こうでs職員「今すぐ持って来て!」
!?!?
よく分からないまま連れていかれた先はオマーンエアーのチェックインカウンター。
職員「この紙持ってここ並んで!」
私「??」
職員「君はクウェート経由じゃなくて1:30の便で直行便さHave a nice trip!!」
ジーザス!!!
おモーニングぶっふぇ、、
クウェート、、、
全て藻屑となりました。
オマーンエアーのカウンター、
45分並んだのに「ここはクウェート行きのカウンターだ」と並び直しされ、並び直したカウンターの女性に英語が通じず鼻で笑われた失意のチェックイン。
出国審査は一瞬で完了。
登場時間ギリギリでセキュリティチェックを終えなんかもう疲労困憊の出発ロビー。
バブリー感凄いのですがもはやなんとなく写真撮るだけ。
残金1.6OMRでお菓子とパンを購入。
オマーンエアー、1:30発3:30着だが機内食あるのだろうか。
あ、出ました。
流石はオマーンの名が付くだけあって機内食あるんですね。いま2:30ですけれども。
しっかりと頂きますよ。
とまあ
踏んだり蹴ったりありながら私は遂にこの国にやって来たのでした。
と言う話を明日の日記に書きます。
シュクランー!
なのですがせっかく調べたクウェートメモ、
勿体無いので貼っておきます。
イラク侵攻のミュージアム、ぜひ見たかった。。
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▪️国名:クウェート国
英語表記:State of Kuwait
アラビア語:دولة الكويت
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▪️地理:
・北 イラク
・西 イラク
・南 サウジアラビア
・東 ペルシャ湾
▪️首都:クウェートシティ
▪️人口:441万人 世界121位
(日本は1億2675万人で世界10位)
※2017年IMF調べ
▪️国民:クウェート国籍40%、外国籍60%
他の湾岸諸国と同じように、インド人、パキスタン人、バングラデシュ人、エジプト人やフィリピン人が多い。
※wikipedia参照
▪️言語:アラビア語
こんにちは السلام عليكم
アッサラーム アレイクゥン
ありがとう ﺷﻜﺮﺍﹰ جزيلا
シュクラン ジャジラン
英語も広く使われている。
▪️宗教:イスラム教が85%
(内訳: スンナ派70%、シーア派30%)
その他15%はキリスト教、ヒンドゥー教など。
※wikipedia参照
▪️通貨:クウェート・ディナール(KWD)
1KWD≒374円(本日時点)
当ブログでは以後1KWD≒375円で換算
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▪️歴史
<オスマントルコとサバーハ家>
・16世紀頃より現クウェート領域はオスマン帝国の支配下にあり、統治拠点はバスラにあった。
・18世紀に入ると、当地にアラビア半島中部より移動して来たと考えられるバニー・ウトバ族のサバーハ家 (Al-Sabah) が勃興し、1756年にはオスマン帝国の下で当地域の統治を担うようになる。この頃のクウェートは漁業や真珠の採集、交易が主な産業であった。
・1783年には、ファイラカ島とブビヤン島の中間にある浅瀬リッカでバヌー・カアブと呼ばれるアラブ系の一族とリッカの戦いと呼ばれるものが起きて勝利した。後にバヌー・カアブはフーゼスターンへ移動した。バヌー・カアブが攻撃を行った理由は諸説ある。今日のクウェートの君主と国民の祖形として国史の重要な位置を占める。
第一次サウード王国がクウェートに侵攻した際にアブドゥッラー・ビン・サバーハ・ビン・ジャービル・アッ=サバーハはイギリス東インド会社との関係を構築した。
<イギリス統治下>
・19世紀に入るとオスマン帝国は支配の綻びを繕うために当地へ軍事介入を繰り返し(オスマン・サウジ戦争)、クウェートはオスマンの庇護下(バスラ州は自治州)に入ったが、1899年サバーハ家のムバラク大首長は中東の植民地化を図っていたイギリスへ寝返り、クウェートはイギリスの保護領となる。
・第一次世界大戦えオスマントルコは敗北し、クウェートはイラク地域と共にイギリスの植民地となる。
・1919年、クウェート・ナジュド(現サウジ)国境戦争勃発、その後の1922年にオカイル議定書にてイラク・サウジ・クウェートの国境線を規定。
・1930年代初頭、天然真珠の交易が最大の産業で主要な外貨収入源であったクウェートは、日本の御木本幸吉が真珠の人工養殖技術開発に成功して日本製養殖真珠が世界の宝石市場に徐々に浸透したことでクウェート、バーレーン沖合で採取される天然真珠の需要が駆逐され、深刻な経済危機となる。
・そこでクウェートのアフマド首長とクウェート政府は、イラク王国、バーレーンにおいて石油が発見されていたのを受けて新しい収入源を探すため石油利権をアメリカメロン財閥が保有するガルフ石油とイギリスのアングロ・ペルシャ石油の設立した50/50合弁会社『クウェート石油』に付与。クウェート石油は1938年2月23日に、現在のブルガン油田となる巨大油田を掘り当てた。世界第二位の油田であるブルガン油田は1946年より生産を開始し、これ以降は石油産業が主要な産業となっている。
<独立・イラクによるクウェート侵攻>
・1961年6月19日、イギリスから独立。
・1962年、第1回クウェート国民議会選挙が行われた。
・湾岸危機直前の1990年1月には、1986年以降閉鎖されたままであった国民議会の再開を求めた民主化勢力が弾圧されるという事件も起きている。この弾圧を受けてクウェート国民の間で大規模な抗議デモが起こり、政府は国民議会を再開した。しかし1990年の議会選挙は大半の議席が首長の任命制であったため、民主化勢力は選挙をボイコット。投票率も選挙が行われた年である85年の80%から、55%と低下した。
・以上のような経緯から、クウェートに対するイラクの主権を認めさせようする流れが常にあった。イラクが共和制になっても初代首相のアブドルカリーム・カーシムがクウェートの領有権を主張。1980年代以降には、イラクの世論を受けたサッダーム・フセイン大統領が、クウェートはイラクの領土であり、イギリスによって不当に分離され、現在はアメリカ合衆国がそれを引き継いでいる旨を内外へ発信。その後1990年8月2日のクウェート侵攻でイラクはクウェートを一時併合する。侵攻直後にイラク傀儡の暫定政府の樹立が宣言され、共和制移行を宣言し国名をクウェート共和国としたあと、イラクに併合された。
・一連の軍事制圧は国連において非難決議が出され、1991年1月にアメリカを中心とした多国籍軍とイラクとの間で湾岸戦争が勃発。
・1991年2月26日、クウェートはイラクによる占領から解放された。
▪️国際関係
<湾岸諸国>
・長らく近隣の湾岸協力会議の参加諸国と連携して国際関係を築いてきた。
・イラクとの関係は1990年のクウェート侵攻を機に断絶していたが2010年以降は外交使節の交換が行われるなど回復しつつある。
・イランとの関係は、宗教上の軋轢から一線を画してきたサウジアラビアなどとは異なり一定の協調関係を築き、時にはサウジとイランの橋渡し役を担ってきた。2017年6月、湾岸諸国がイランとの関係等を理由にカタールとの断交措置に踏み切ると中立的な立場を採ったが、翌7月には自国のテロ未遂事件の容疑者がイランへ逃げ込むとイランの大使館業務の一部閉鎖や大使館員の国外退去などの措置を行った。
<日本>
・湾岸戦争の際、日本政府は1兆円を超える資金援助をしたが、戦後クウェート政府が発表した協力国への感謝リストから日本だけが外された。人的派遣をしなかったためではないかと言われている。
・自衛隊は、湾岸戦争時にペルシャ湾にばらまかれた機雷除去作業に協力した。
・同国からは東日本大震災に際し、500万バレルの原油が無償援助された。また、東日本大震災で被災した三陸鉄道ではクウェート政府の資金援助総額500億円から新車両3両を南リアス線に導入した。また、アクアマリンふくしまの復興に300万ドルの復興支援金を送り、アクアマリンふくしまはその謝意を表すために「クウェート・ふくしま友好記念日本庭園」を整備した。
▪️経済
・名目GDP:1,206億ドル 世界60位
(日本は4兆8,721億ドルで世界3位)
・一人当たりGDP:27,393ドル 世界32位
(日本は38,439ドルで世界25位)
・経済成長率:ー3.338% 世界185位
(日本は1.713%で世界150位)
・失業率:1.13% 世界107位
(日本は2.88%で世界99位)
※2017年IMF調べ
・石油が主要産業であり、2016年現在の生産量は300万バレル/日を超え、世界第4位の埋蔵量がある。湾岸戦争により大きな被害を受けたが、1994年に戦前の水準まで回復した。
・原油価格の高騰による豊富なオイルマネーによって、産業基盤の整備や福祉・教育制度の充実を図っており、ほとんどの国民は国家公務員・国営企業の社員として働いている。
・石油収入を利用した金融立国や産業の多角化を目指して外国からの投融資環境を整備したため莫大な雇用が創出され、不足している労働力は周辺外国人が補っている。
・一方で砂漠気候で農業は発達せず、食料は外国に大きく依存している。
・失業率は1.2%と低水準。将来的には石油の枯渇が懸念されるが当面は高い生産量を維持可能であると予想されている。
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