#533 虐殺博物館そして次の国へフライト。inカンボジア(6) 2019.5.29
- 2019/06/01
- 06:00
唐突に物騒なタイトルで恐縮です。
ここカンボジアは内戦で地雷がたくさん埋まっている、ということはなんとなくながら知っていました。でもそれ以上のことはあまり知りませんでした。
カンボジア内戦。
ここプノンペンを中心に、
当時の国民の1/4にあたる約200万人が当時亡くなっているという事実。
この旅に出るまで一切知りませんでした。
その惨劇の一部であるこの場所、
この博物館の名はトゥール・スレン虐殺博物館。
当時のポルポト政権クメール・ルージュによって極秘に運営された強制収容所。12,000〜20,000人もの人々が収容され、確認された生存者は12名。
今日はそんな負の遺産を見学の後、
フライトでカンボジアを出国します。
カンボジア最後の最後になかなかハードな経験となりました。
ちょっと想像以上に内容がハードなので、閲覧されるかどうかは御一考ください。
――――――――――――――――――
▼徘徊メモ
・行き先:プノンペン市内
・手段:トゥクトゥクとか
・料金:まちまち
・時間:ー
↓プノンペン地図マップ
(二行目はMapsme表記)
・オレンジ:バス到着場所
Sorya bus station PP
おそらくSorya社のバスオフィス
・青:宿 ドミ一泊3.3ドル
Panorama Mekong Hostel
赤ピン、上から順に
・ワット・プノン
Wat Phnom Pagoda
・ナイトマーケット
Phsar Reatrey Night Market
・セントラルマーケット
Phsar Thmei
・王宮
Royal Palace
・オルセーマーケット
Phsar Orussey
・独立記念碑
Independence Monument
・トゥールスレン博物館
Tuol Sleng Genocide Museum
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おはようございます。
プノンペンラストモーニンです。
時刻6:00。
出国に向けて荷物整理したり日記書いたり。
トゥールスレン虐殺博物館は8:00オープン。
その後に郊外にあるキリングフィールドへ向かい、14:00から予約してあるちょっと豪華めマッサージを受けて18:00のフライト、
という、
昨日とは打って変わっての盛りだくさんスケジュールです。
いや、昨日も元々は盛りだくさんだった、というかトゥールスレン虐殺博物館は昨日行く予定だったんですけどもね。
で、
まずは朝飯を喰らいにまいりたいと思いまーす。
お目当ての場所オルセーマーケットまでGrabトゥクトゥク(トゥクトゥクもあるのです)で5,000リエルだったのですが、
宿前のトゥクトゥクがスリーというので、スリーサウザンド(リエル)?と確認して乗車。
あら、
意外と流しの方が安い?
と思いきや
オルセーマーケットではなく
セントラルマーケットに連れていかれ
「スリーダラー!」
とかニヤニヤしたのでその場で捨て置き
Grabトゥクトゥクをそいつの目の前で呼び寄せて乗車してやりました。
藻前のようなカス虫はこの資本市場から消え失せれば良い。
そんな大人気ない私がやってきましたは、
朝は朝メニューになってました。
ただ内容は相変わらず麺推しです。
注文はメニューのセンターポジを我が物にしていたNoodle soup with pork。
安心と信頼、そして安定のヴィジュアルです。
ああもうこの麺を持ち上げたときに広がるさわやかなガーリック風味。
そしてもうこのどうにかなっちゃいそうなこの美味さ。
どうしたらそんなに美味しくなるの?
おかげさまで私マジで涅槃の5秒前です。MN5。
前回写真撮りそびれましたがこの
付け合わせの甘辛タレがもはや究極魔法です。
これをスプーンに乗せてスープ上でちょっとだけ解いて肉乗せて召しますともはやアルテマ。
強烈な美味が次々と襲い掛かってくるメテオです。
ああ!! 悦!!
仏僧さんも夢中になる美味さです。
いやー、
ここ素晴らしい。
時間あらば空港行く前にもう一度来たい。
なーーんておふざけはさておき、
到着です。
見た感じ、古い学校のような建物ですが、そうなのです。ここは高校の校舎を利用した強制収容所だったのだそうです。
ひとまずこのトゥールスレン強制収容所についてWikipedia先生におさらい頂きましょう。一部追記修正してます。
ーーーー
S21は、1975年〜1979年のクメール・ルージュ(カンボジア共産党)支配下のカンボジア(民主カンボジア)において設けられていた政治犯収容所の暗号名である。
稼働中は存在そのものが秘密であったため公式名称は無い。現在は地名を取ってトゥール・スレンと呼ばれている。
2年9か月の間に14,000~20,000人が収容されたと言われ、そのうち生還できたのは8人(現在身元が分かっているのは7人)のみであった。
ーーー
生存人数が冒頭で私がパンフレットから拾った12名と食い違ってますが、とにもかくにも大変な惨状で公式な記録が錯綜しているんだと思います。
この惨劇の首謀者である政党クメール・ルージュおよび主導者ポルポトについてもちょっと背景をおさらいです。
・1953年、ノロドム・シハヌーク国王のもとでカンボジアがフランスから独立。
・1970年、政治家ロン・ノルによるクーデターで王政は廃止。クメール共和国が成立。
・同年、ベトナム戦争の中でアメリカ軍&南ベトナム軍が北ベトナム軍との戦争の過程でカンボジア領内に侵攻。米軍の空爆は人口密集地域を含むカンボジア全域に拡大され、空爆開始からわずか一年半の間に200万人が国内避難民化。
・この事態を受けてシハヌーク国王は亡命先の中国北京でカンプチア王国民族連合政府を結成、中国共産党の後押しで反ロン・ノル諸派の統一戦線を呼びかける。以前より反政府闘争をしていた組織クメール・ルージュもこれに同調したことで農民層の支持を得、1975年にプノンペンを制圧。民主カンプチア国を設立した。
当時のカンボジアは国王を追放したロンヌルによる腐敗政治と米軍による強烈な爆撃(米軍は日本に投下した量の1.5倍の爆弾量)で大変な惨状となっており、人々はそんなカンボジアを救ってくれると期待してポルポト率いるクメールルージュを歓迎したそうです。
クメール・ルージュが目指した社会は「原始共産主義社会」。
資本主義、都市文明を徹底的に廃絶する、原始時代のように農業だけをやってこうよ、という社会だそうです。
私有財産は没収、通貨は廃止され、教育機関、医療機関、銀行は全て廃止、宗教も否定されて寺院は破壊されたそうです。
これが大方針。
そして高度な知識や教養は政策の邪魔になるとして、教師、医師、技術者は片っ端から殺害。眼鏡を掛けている人、文字が読める人、時計が読める人、そしてその家族もひっくるめて、例外なく殺害されたそうです。
その殺害の過程として、
身に覚えのない罪を自白させるための拷問施設がここ、通称S21。
そして自白が完了した人物はその場で殺害、ないしは現在キリングフィールドと呼ばれる郊外の区域で殺害、死体置き場に投げ込まれた、という歴史です。
S21という名の通り、
カンボジアには当時167の強制収容所と343の処刑場があったそうです。
もうこの時点で理解の範疇を超え過ぎです。
1975年て。
たった40年ちょっと前ですよ。
なんならうちの姉とか生まれてます。
そんな現代に、
こんなことが現実に起きていただなんて、あまりにも衝撃的。
そんな場所です。
百聞は一見に如かず。
トゥールスレン虐殺博物館へ足を踏み入れてみましょう。
オーディオガイドは絶対借りた方が良いです。日本語あり。
そしてここのオーディオガイドは内容がかなりしっかりしてます。
オーディオガイドさんは敷地内の周り方から説明してくれます。
そして重ね重ね
「体調が優れなくなった場合はいつでも休憩頂いて構いません」「無理をせず、見学をしてください」と言ったアナウンスが入ります。
このすぐ向こうは外界な訳ですが、
当時は原始共産主義のためにプノンペン市民は地方の農村へ強制送還&強制労働させられており、街はゴーストタウンだったそうです。
ここには14人のお墓があります。
ベトナム軍がプノンペンを奪還した後に彼らはこのS21を発見したわけですが、その際に施設内にこの14名の死体が残されていたそうです。
カンボジアのこの気候。
発見当時の施設は強烈な死臭だったそうです。
かたやで施設職員は重要記録を破棄して逃走。その際に拘留していたこの14名も口封じに殺害したのでしょう。
一階は部屋の上部の窓格子が板で覆われていました。
この一階が主な拷問室だったそうです。
当時この強制収容所は極秘中の極秘の存在であり、拷問中の絶叫を外に漏らさないための対応だそうです。
ベッドの下が黒ずんでいるのが分かるでしょうか。
血痕です。
当時の処刑は銃声が外に漏れぬよう、撲殺、刺殺が主だったそうです。
このベッドはベッドが変形してしまっています。想像を絶する拷問だったのでしょう。
・質問された内容には即時に返答。
・何があっても叫び声をあげてはならない。
・規則を破ったら鞭打ち10回、電気ショック5回。
など、
書かれているそうです。
当時の人々は突如としてクメールルージュの組織に拘束され、目隠しされ、行き先も告げられず「罪を犯したから」と連行されてきたそうです。
生存者の一人、絵描きアーティストのボウエン氏(名前うろ覚え)は連行時に「何の罪ですか?」と組織員に問うと「クメールルージュは罪人しか連行してない」としか返答されなかったそうです。
各部屋には当施設発見当時に死体となっていた14名の発見当時の写真も展示されています。一部顔は隠されていましたが、人間とは思えない痩せこけた身体がくしゃくしゃになってベッドに放置、ないしはベッドから崩れ落ちていました。
罪の自白供述を強要させるのに使われたそうです。
なお自白内容はクメールルージュ政権の敵対者であることを自白させられていたそうです。どこぞの国のスパイであるだとか、CIAの一員であるだとか、当時の収容者からしたら「?」な内容だったそうです。
ここでは絞首刑としてではなく、拷問用に使われていたそうです。
人をここで逆さに吊るして尋問し、意識を失ったら
この壺に頭から突っ込ませ、意識を取り戻したらまた尋問を再開したそうです。
そして壺に満たされていたのは受刑者の排泄物。
B棟。
ここは写真による展示が所狭しと並んでいます。
記録として入所者の写真が撮られていたそうですが、これで全員かどうかは誰にもわからないそうです。
クメールルージュがプノンペンを制圧した際の様子。
先ほど記載の通り、当時のカンボジアは腐敗政治と米軍空爆により大変な惨状だった背景もあり、当時の人々はクメールルージュを厚く歓迎したそうです。
そしてその後すぐに農村への強制退去を命じられ、逆らった人はその場で処刑、という惨劇が始まります。
強制収容所に連行された人々の服。
連行された人々はその場で裸にさせられたそうです。
オーディオガイドさんは「人々から誇りと尊厳を奪う重要な行為」だったと言ってました。
拡大するとわかりますが、
年齢は20代前半〜10代未満。
文明色に染まってなく読み書きができない子供が重用されたそうです。
そんな子供たちは、地方から連れてこられ、この場所で自白供述を引き出す拷問の手法を学び、大人たちをその手に掛けたそうです。
カンボジア人がカンボジア人を処刑する。
そして職員である彼らもまた、最終的には処刑されました。
クメールルージュの原始共産主義理念の下では機械を使わない原始的な農業です。
みな薄いスープのみの配給を受け、朝3時から夜遅くまで働いたそうです。
その辺の木からマンゴーを取ったら処刑。
彼らの大半は都市部から強制退去させられた人たちなので当然に農業スキルなんてなく、まともな収穫は得られなかったとのこと。
そんな環境なので人々は飢餓に苦しみ、
上記の虐殺も含めて200-300万人もの人が亡くなったということです。
彼は仲間と一緒に船旅をしており、
カンボジア領海に入ったところで拘束されたそうです。
3人の友人のうち一人はその場で殺害。
残った二人はここS21で拷問の対象となりました。
この右側のケリーハミルさんは当時の尋問でCIAのスパイであると自白させられるのですが、上官はだれか、という質問に対し「カーネルサンダース」と答えているそうです。
そしてスパイ仲間の連絡先として自宅の電話番号を供述し、その他供述には家族にしかわからないようなキーワードを散りばめ、供述書にメッセージとして想いを残したのだそうです。
オーディオガイドでは彼の家族によるお話が紹介されていました。
ケリーハミルさん、当時27歳。
他にニュージーランド、イギリス、フランス、アメリカ、など多くの外国人がここで処刑されたそうです。
当時海外で働いていたカンボジア母国のエリート達には政府から帰国要請レターが出されたそうです。多くの人は「母国の革命のために!」と帰国して拘束され、ここで処刑されたそうです。
奥の部屋の床には独房の跡が。
当人に似ていないと判断された際は製作者は処刑されたそうです。
この部屋には(自白強要された上で)犯罪者認定そして処刑された人の記録写真、つまり殺害完了写真が大量に掲示されてました。
撮影禁止でした。
なおあくまで処刑においては犯罪者認定、
つまり罪の自白が必要とされていたそうで、
自白に至る前に病死した人に対しては職員が怒り狂ってその死体を殴る蹴るしたそうです。
自白を得れずに死なせてしまうとその職員が罪を負うこととなり、公に処刑されるからです。
そんな背景なので、
大怪我をした人は医者が面倒を見るんだそうです。
といってもまともな医者は処刑済みなので、医者として役目を与えられた人たちが患部に塩水をかけて小さな野菜を薬として与えるのみ。
そして患者の体調が回復したらまた拷問を再開するそうです。
C棟。
ここは有刺鉄線による網が残されていました。拷問に耐えかねた収容者が飛び降り自殺するのを防ぐためだそうです。
内部は当時の独房が残されていました。
一方で雑居房として60人を一つの拘束具で収容する部屋もありました。
独房の存在理由は拷問に連れ出しやすいから、だそうです。
夜、寝返りを打つと鎖が音を立てます。
それだけで鞭打ちされたそうです。
彼は機械工で、タイプライターの修理が出来ると理解されてからは技術員として扱われ処刑を免れたそうです。
建物内の随所に血糊が残る。
オーディオガイド曰く、「収容者の中で最も有名になった収容者」、ボパナさん。
容姿端麗の彼女。
フランス語も話せたそうです。
彼氏さんがクメールルージュの幹部となったのですが、その後の彼らのラブレターのやり取りがバレてしまい二人ともS21へ収容、処刑となったそうです。
ボパナさんは「クメールルージュ幹部を誘惑した魔女」として取り調べを受けたわけですがその調書は500ページにも及ぶそう。みんなしてボパナさんに取り調べをしたということです。みんなボパナさんに興味津々だったようです。
その奥には先ほど記載した生存者の絵描き、ボウエンさんが描いた当時の様子がいくつか。
60人拘束具、って、
実際に目の当たりにすると恐ろしくてしょうがない。
わかっちゃいるけど「人間的扱いをされない」とはまさにこのこと。
稀にこの部屋にはシャワーで水を撒かれるそうですが、こんな環境なのでみんな皮膚病に侵されたそうです。
死んだ人はしばらく放置されたそうです。
周辺の人は空腹に耐えかねて死体に寄ってくる虫を食べたそうです。
先述の通り、殺害は鈍器か刃物です。
こちらは当時のカンボジアにおける光景。
同、イスラム教徒。
カンボジアにはチャム族という少数民族がおり、彼らも迫害の対象なり多くのモスクが破壊されたそうです。
キリングフィールドはその名の通り、処刑場兼死体遺棄場です。
このS21で自白成立した人はここへ送り込まれ、斧や刃物で殺害されました。
赤ん坊は大樹に叩きつけて殺したそうです。
この絵では放り投げられた赤ん坊がゲームのように撃ち殺されています。
そんなケースもザラにあったのでしょう。
クメールルージュ下のカンボジアの地図。
赤い文字が強制収容所ならびにキリングフィールドの分布。
当時167の強制収容所と343のキリングフィールドがあったそうです。
朝は9:00〜10:45、
昼は15:45〜16:15、
それぞれ別の映像を上映しているようです。
機械工、大工、彫刻家、アーティストx2、翻訳家、エンジニア。
約20,000人が収容されて結果この7名。
※パンフレットとの生存人数差の背景は不明です。
以上が、
このトゥールスレン虐殺博物館で私が見学したものの一部です。
想像を遥かに超えていました。
これが戦後、
日本が景気絶好調のときにカンボジアで起こっていた現実だとは。
これ、
クメールルージュ後のカンボジアの人口分布図。
恐ろしいことになっています。
この事件はカンボジアの現在に計り知れないインパクトを与えてます。
オーディオガイドさんはメッセージの中で、
この事実を色褪せさせないために(=今後の人類の平和のために)、この事実を知り、語り継いで欲しい、というようなことを言っていた気がするのですが、なるほど確かにいち観光客にできるのはそういうことなのかなと。
そんな経緯もあって、
見学した展示内容を時系列にそのまま日記にしました。
長くなってしまい恐縮です。
アウシュビッツ強制収容所で日本人ガイドの方が仰っていたこと。
「もし自分が一般ドイツ人だったとしたらナチ党の政策に対してどうしていたか?」
ちょっとユダヤ人を迫害したナチとほぼ全ての自国民を迫害したクメールルージュとでは市民側の状況は異なりますが、もし自分がその場にいたとしたら、と考え出すと、この事件の恐ろしさ、独裁政治、情報統制の危険性が身に染みます。
対岸の火事と思えない、
そんな一件でした。
ちょっと、
もう、
つらたんなり。。。
この足でキリングフィールドまで足を運ぶつもりでしたが、やめました。
そのままこのカフェで、先ほど目にしたこと、ノートにメモったことをこの日記にしました。
キリングフィールドはまたの機会にします。
もっと東南アジアについて学びなおした上で、また来ます。
、、、ということで、
長らくの休憩の上で40ドルのラグジュアリーマッサージをかまし、
その足でやってきました。
オルセーレストランー!!(本日2回目)
いえね、
カンボジア通貨が余りまして。
ここで使い切る算段です。
1日3杯食っても足りないくらい食える。
ここなら。
店員さんがアイスティー出してくれるよね。
(しっかり課金されました)
Noodle soup with beef bawlです。
ああもうカンボジアラスト飯にふさわしい。
この甘辛味噌を溶かし込むスープがゼウス。
もう幸せ絶頂あげみざわ状態につき完飲写真を撮りそびれたのが無念です。
最高です。
無事カンボジアリエルを使い切れたのも我ながら大拍手です。
使い切るために無理やりおみや買っちゃったりして。
プノンペン国際空港。
市内オルセーマーケットからGrabトゥクトゥクが4ドルとめっちゃ安かったのでトゥクトゥクりました。
最近だと列車やバスなんかもあるそうです。
空港入り口でドライバーが車両通行料1ドル徴収されてましたが料金はGrabの表示通り4ドルでした。
10ドル払ったらお釣りまさかの1ドル&5ドル分のカンボジアリエルキター!!
どうすんのよこれ。
カンボジア出国したら紙くずなのよ?
なお空港まではぼちぼち渋滞ありながら30分強でした。
ふふ。
クアラルンプール行きです。
えっと、いや、あのですね、
マレー飯がどうしても食べたくて。
待ち時間で先ほどのオルセーレストランのおみやの肉まんを食べたり、
※ぷりっぷりで神的美味的神。
先ほどのトゥクトゥクにやられた5ドル分20,000リエルを使い果たすべく空港の売店で胡椒パックを買ったらまさかの1ドル4,200リエル換算で21,000リエル必要となりまた無駄に1ドル札を消費しリエル札が戻ってくるトラップに掛かりもうリエル札だれか欲しい人ー?
機内です。
海のシルクロードの中継地点として大いに栄えたマレーシアは多民族国家。イスラム教仏教キリスト教入り混じる同国マレーシア航空の機内は多種多様です。
ヒジャブを纏った女性がグググっと増えました。あとインド人。
フライトはわずか3時間です。
18:30発21:30着。
夕ご飯。
お弁当みたいでちょっと高まる。
まあ3時間もあるしー、とかやってたら飯を回収されてしまいました。
どうやらマレーシアはカンボジアより時差が1時間早く、フライト時間は実質2時間だったようです。
メニュー左下のナシレマというマレー料理、やらしてもらってます。
チキンカレーと、赤いのは辛めの佃煮、ご飯はなんとココナッツ風味のライス。
どことなくカレーにはインド感があり、
カレーと佃煮の辛さにタイを感じる一品です。
辛旨、いや、ちょっと辛い。。!
でも美味い、そんな感じでした。
いやー、マレー飯、
奥深そうですねー。
お値段27リンギット。
1リンギットいくらか分からず適当に注文しましたがやはりここは空港。800円くらいでした。ジーザス。
ということで、
本日の日記はここまでです。
明日はこのクアラルンプールから日記を再開しますー。
オークン!
でしたー。
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※会社のパソコンからだとIP重複でカウントされない場合があるのでお手数ですがスマホかご自宅パソコンからお願いしますmm
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