・強制収容所はここだけで無くワルシャワやビリニュスなど各都市に作られている。ドイツ国内ではないのは「アーリア人以外をドイツに入国させない」というアーリア人至上主義政策によるもの。
・アウシュビッツ強制収容所も複数あり、1940年に第一強制収容所がオシフィエンチム(独語でアウシュビッツ)、1941年に第二強制収容所がブジェジンカ(独語でビルケナウ)、1942年以降に第三強制収容所がモノヴィッツに作られた。
・収容されたのはユダヤ人が90%(アシュケナジム)、政治犯、ロマ・シンティ、障害者、同性愛者、さらに彼らを擁護した者など
・死亡した人数は150万人と言われるが、連れてこられた人はその場ですぐに「選別」がなされ、70-75%が記録も残されずに即刻ガス室送りとなっているため、正確な数は分かっていない。
※アーリア人=※かなり端折った説明です:ヒトラーはゲルマン民族の祖先にあたるアーリア人を最上位と位置付けた。狭義ではアーリア人はイラン人を指す。インドとヨーロッパは同じ語族であり、その語族を用いる民族の祖先がこのアーリア人種。。ちょっと難しいですこれ。
※アシュケナジム=世界各地に点在するユダヤ人のうち、ドイツ語圏・東欧に定住した人々
※ロマ・シンティ=ジプシーです。ジプシーは差別用語のため最近は使われないのだそうです。
・1945年1月27日、ソ連軍により解放される。
++++++++++++++++++++++
本日、ついにアウシュビッツ強制収容所に行く日です。
なかなか日程のご調整が難しそうな日本人ガイドの方になんとかお願いができまして。
その日取りが本日なのであります。
そのためあと1ヶ月は居座れたであろう物価激安ウクライナを3日で離れて本日クラクフまでやってきました。
オシフィエンチムはクラクフからバスで1時間ちょっとです。
クラクフ駅Małopolski Dworzec Autobusowyバスターミナルからバスが出てます。
このバスターミナル、立体構造で複雑なのですが、チケット窓口は2階です。一階にも二階にもバス乗り場があるので一階から行くと迷子になりそうです。
バスの時間ですが、事前情報は1時間に一本でしたが、朝だからか30分に一本はありました。
英語、通じました。
4:00にクラクフについて相当暇だったのでついつい8:30のバスに乗ってしまい、10:00ちょいには着いてしまいました。
本日のバス(バンでした)。
下車場所はアウシュビッツ・ミュージアムからちょっと離れた道路沿いでした。
臨時便だったのかな。この掲示があったのでなんとか迷わず敷地入り口まで行けました。
こちらがアウシュビッツ・ミュージアムです。
ミュージアムなんてタイトルになってますが、ここがアウシュビッツ強制収容所でした。
緑が青々としていてちょっと驚きましたが、
向こうには収容施設だったと思われる建物が見えております。
そしてツアー開始は11:30。
まだまだ時間があります。
入場棟内にブックショップがあり、日本語の本もいくつかあったので、小冊子を購入。10ズウォティ。他にも20ズウォティのやや厚めの冊子やもうちょっと値が張る本などがありました。
小冊子を見つつ、本日気温22度の陽気にもはや夏を感じつつ、半袖でギャーギャー騒ぐ欧米人に民度の問題提起をしつつ、ウクライナバスの椅子のクオリティによる背骨の痛みをストレッチしてたら11:20でした。
欧米人ってなんであんなにどんなときも遠足気分なんでしょうか。
集合場所である入場棟前にはすでに9名の日本人の方々とガイドさんが集合しており、すみませんノコノコとおっさんが合流です。
入り口でセキュリティチェック。
鉄製のものは即座に反応してしまうらしく、私はダウンのポケットの各国の小銭たちが反応し、それを検知ボックスにジャラジャラと入れる姿に係員苦笑。
また私がツアーの皆様をお待たせしてのそのそ合流してツアースタートです。
アウシュビッツ強制収容所と、アウシュビッツ・ビルケナウ強制収容所の位置関係。
右下がアウシュビッツ、左上がビルケナウ。
ビルケナウの巨大さ、伝わりますか。
両者の距離は非常に近いです。
そしてアウシュビッツは有料ですが、ビルケナウは無料です。
まずはこのアウシュビッツからスタートです。
早々に、教科書に載っているこちら。
第一アウシュビッツ強制収容所入口です。
「ARBEIT MACHT FREI(働けば自由になる)」と掲げられています。
これが、あの、ARBEIT MACHT FREIですか、、、。
目の前にこれがあることが信じられません。
そしてご存知の通り、実際自由になれた人は1人もいません。
このアーチをくぐって中に入ります。
囚人側の景色(敷地側から)。
強制収容所敷地内に入りました。
当時の建物が一部復元されながら形を残しています。
その建物内に、当時の様子が展示されています。
随所に当時の写真が展示されています。
これは楽器隊が演奏をしている写真。
実際の収容所の様子、ではありません。
ドイツ軍が対外的にこの施設の健全性を示すためのいわばPR写真です。
写真の左下に管理番号がありますね。
こんな風に対外的には良い顔しながら本収容所は運用されていたんだそうです。
これは生還した人が当時の様子を描いた絵です。
強制労働させられるユダヤ人。
そしてそれを監視するのも囚人です。
収容された囚人には各々仕事が与えられ、カポという囚人の頭に選ばれた人が、囚人の労働を監視していました。後ほど出てきますが、このカポにはドイツ人囚人が割り当てられたようです。
ドイツ軍人が直接手をかけないことでドイツ軍人の精神的負荷を緩和すること、そして囚人が囚人を管理監視することで反乱を抑圧する狙いがあったそうです。
展示棟一つ目。
アウシュビッツに収容された人がどこから連れてこられたか。
北はオスロ、南はアテネ。
ポーランドだけではないのですね。
先ほど記載の通り、元々アウシュビッツを含む各種強制収容所は政治犯などユダヤ人ではない収容を目的としていました。
強制収容所の死者数。
先ほどのwikiとやや数字がずれますが、死者数合計130万人、
うちユダヤ人110万人、ポーランド人14〜15万人、ロマ・シンティ2.3万人、ソビエト軍捕虜1.5万人、その他罪人2.5万人です。障害者、同性愛者、その他はより少数なのかどうかは不明です。
ハンガリーから連行されたユダヤ人の写真。
みな、泣きもせず笑いもせずです。
アンネの日記を実は昨夜のタイミングで初めて見たのですが、
みんな当然に生き延びたいと願いながらも、
死を恐れない、というか、死をもって戦うというか、強い信念を持って覚悟を決めているように感じました。
実際のところはどうか分かりませんが、
みなどういう気持ちだったのでしょうか。
想像がつきません。
以下はソビエト軍捕虜。
ちょっと表情からは読み取れません。
展示室の名前がもう。
これは「選別」の様子の写真です。
列車で連行されてきた大量のユダヤ人は、
男性と、女性及び子供の二列に分けられ、
このように、医者により、「選別」されました。
この写真は杖をついたおじいさんが左を指示されてます。
左奥に見える集団(以下写真が拡大写真)は「価値なし」と選別された人たちです。
この後ガス室へ誘導されます。
なんの権限も持っていない医者が、独断で人の命の行方を決めていたのです。
「選別」後の写真。
誰もいません。
仕事を終えたドイツ軍人が談笑しながら立ち去る姿が写真下部に見えます。
ちなみにこの写真はドイツ軍による公式写真ではありません。
とあるドイツ軍人が私的に撮影していた写真で、ドイツ軍撤退後にドイツ軍兵士の鞄から見つかった写真だそうです。
ビルケナウのガス室と焼却炉の模型です。
脱衣所とガス室は地下に設けられていました。
地上からは見えない場所で実行するためです。
模型左側が該当。
右側の拡大写真が以下。
ガス室で処理された遺体はそのまま焼却炉で燃やされます。
その処理作業はこれまた囚人の仕事でした。
それによりドイツ軍人の罪の意識は希薄になり良心という歯止めが及び難かったそうです。
これは囚人が囚人を隠し撮りしたもの。
内部告発なのか下心なのかが分かりませんでしたが、
こちらはシンドラーのリストにもあった、身ぐるみ全て剥がされたユダヤ人女性の姿です。
シンドラーのリストでは男女構わず身ぐるみ剥がされた映像が衝撃的すぎて震えたのを覚えてます。
ガス室で使われたガス。チクロンBです。
元々はチフスなどの殺菌に使われる消毒製品・殺虫剤だったそうです。
ガス室にチクロンBを投下すると、ものの15分で全員死亡したそうです
展示棟二つ目。
ユダヤ人の所有物は全てドイツ人のものである、という法案が可決され、ユダヤ人の持ち物は片っ端から没収されました。
眼鏡。
義足
障害者のものです。第一次世界大戦の負傷者が多かったそうです。
食器
食器をしっかりと持ち出すあたり、ユダヤ人のお母さんの家庭的な姿勢が目に浮かび、辛いです。きっと収容先がこんなところだとは1mmも知らずに自分の家族に料理を振る舞うことになると思っていたのだろうなと。
ユダヤ人の鞄。
鞄にはどこから来たユダヤ人なのかが殴り書きされています。
子供服
靴
靴、靴、靴。
女性の髪も。
おびただしい数の女性の髪が、だだっ広い室内に山のように積まれていました。
幅30m×奥行き2m×高さ1.5mくらいあったのではと思います一面髪の毛で
ユダヤ人女性は身ぐるみだけでなく髪も剃られました。
※髪は人体の一部ということで写真はNGでした。
強制労働に回されたユダヤ人は体に管理番号を掘られました。
そしてこのような囚人服を強制されます。
胸元に以下マークをつけられ、区別されました。
ドイツ政治犯、ポーランド政治犯、ロマシンティ、ソ連軍捕虜、同性愛者、等々
震えるのは「エホバの証人」が名指しでマークがあること。
私、小さい頃にエホバの証人の集会に行っていたことがあるのです。
今ではなにもありませんが、改めて調べてみると彼らもユダヤ人と同様に異端の扱いを受けていたのですね。。すごく複雑です。他人事のように思えません。
ちょっと動揺しすぎてブレましたが、胸元にマークがあります。
いきなり上記表のどれに該当するか謎です。
展示棟三つ目。
壁一面に掲示された写真。
収容された人たちです。
この人たちの中で生存した人は、ゼロだそうです。
やせ細った子供達。
15歳未満の子供達は全員ガス室で殺処分だと先ほど記載しました。
ではなぜ彼らの写真があるか。
、、、人体実験の被験体だからなんですって。
耐えられますかこの現実。
初期の囚人たちの部屋。
布団がありますね。
この後ビルケナウの実際の部屋を見学しますが、この部屋は1000倍マシな部屋です。
四つ目の展示棟は、牢獄でした。
地下には立ち牢と言われる90cmx90cmの密閉空間に四人の大人を閉じ込めて死に追いやるものと、飢餓牢と言われる、食べ物を与えず飢え死にさせる牢がありました。
飢餓牢にはマキシミリアノ・マリア・コルベ神父の慰霊碑がありました。
彼は1930年に日本に来日したポーランドの宣教師です。
帰国後、彼の出版物が政治犯扱いとなり逮捕され、ここに収容されました。
そして収容所から脱走者が出たということで見せしめに無作為に10人の囚人が選ばれ飢餓刑に処されようとした際に、対象になったひとりのポーランド軍曹が「私には妻子がいる」と泣き叫び、それを聞いたコルベ神父が「私はカトリック司祭で妻子はいないのでと身代わりを申し出たのだそうです。
なお2週間後、コルベ神父ほか4名はまだ生存していたため薬物注射により殺害されています。
コルベ神父はカトリック教会の聖人とされました。
立ち牢と飢餓牢は暗く狭い地下室にあるため撮影NGでした。
当該建物を出たところが、、、、死の壁でした。
「死の壁」。
ここでなにが行われたかは想像に難くないと思います。
ナチス親衛隊(SS)はここで何千人もの人を射殺しました。
シンドラーのリストでも射的でもやってるのかというノリでズバンズバンユダヤ人が撃ち抜かれていましたが、それがこの場所です。
当時の壁は証拠隠滅のために破壊されているようでこのグレーの壁では無かったそうです。
また周囲の建物は、
このように窓に蓋がされています。
銃殺は秘密裏に処理していたんだそうです。
反対側の建物は蓋がありませんでした。
それはこの建物は死刑囚の収容棟だからだそうです。
高圧電流の有刺鉄線。
こちらと向こうの間に鉄線があるのは男女で領域を分けていたからだそうです。
このように、施設は高圧電流の有刺鉄線で囲まれていました。
強制労働に耐えられなくなった人は「鉄線に行ってくる」という囚人俗語でいわゆる鉄線への飛び込み自殺を選ぶ人も多かったそうです。
感電死って、映画でしか見たことないですが、物凄い悲惨です。
敷地の外れ。
奥に家が見えます。
元々民家だったんですって。
で、戦時中は住民を追い出して、この強制収容所の所長が住んでいたそうです。
その目と鼻の先に
ガス室と焼却炉があります。
なおこの民家は強制収容所の解散後、住民に返却され、今は人が住んでいるそうです。
よく住めますよね。。。
と言いながら一昨日チェルノブイリの街を離れなかった人々の件があったばかりでしたね。。。
焼却炉の手前に晒し首台が。
強制収容所解放後、ここで所長は処刑となりました。
当時、施設関係者は誰一人として謝罪の言葉を発しなかったそうです。
総じてみな、「言われた通りにやっただけ」と答えていたそうです。
だって、国家政策だったんですからね。
彼らの言葉を借りると、大量殺害は、民族至上主義政策の「手段」でしかなかったわけです。
ガス室と焼却炉です。
寒い。
ここ寒いです。
寒気がします。
ガス室に入る前の部屋の天井。
ガス室。
この場所で、一回で数百人が命を落としました。
「体の汚れを殺菌するのでシャワーを浴びてください」と言われて。
この穴が、、、チクロンBの投下口です。
すぐ隣に焼却炉です。
ガス室の数百体の遺体を、ここで処理していきます。
作業したのは囚人です。
ドイツ軍人はこの作業をせず、毒ガスだけ放り込んで仕事終了だったそうです。
焼却炉の天井です。。
、、、ここまででアウシュビッツ第一強制収容所の見学は完了です。
ツアーガイドさんの音声を聞くオーディオとヘッドセットを返却、15分の休憩。
そして入場棟の前方にあるバス停からアウシュビッツ第二強制収容所ビルケナウへ向かいます。
バスは無料です。10分に一本ペースで往復しているそうです。
第二アウシュビッツ・ビルケナウ強制収容所への門。
貨車はこの線路を通りビルケナウへ連れてこられました。
この門は「死の門」と呼ばれていたそうです。
貨車の停車場所。
貨車内の環境も劣悪で、ここの時点でかなりの人が命を落としまし
そしてなんとか生き残った人が貨車を降りるとこの景色。
そうです、先ほど見た写真の通り、
ここで「選別」されます。
奥に林が見えますよね。
その林の陰にガス室と焼却炉があります。
「価値なし」判断された人はこのままこの道をまっすぐ進むよう指示されました。
我々もこの道をまっすぐ進んでみます。
見えてきたのは破壊されたガス室と焼却炉でした。
イスラエル国旗が捧げられていました。
ビルケナウには焼却炉が合計5つあり、1日に4576の遺体を焼却できたそうです。
その裏手。
慰霊碑がありました。
ポーランド語、英語、イーディッシュ語、ヘブライ語の銘板が置かれています。
※イーディッシュ語:アシュケナージ・ユダヤ人が用いる言語。
右手が先ほど見た破壊された焼却炉です。
最初は遺骨を埋めていたんですって。
でも埋めていると、後々掘り返した時に戦争犯罪の証拠になりかねません。
ということで、埋めるのはやめて、骨は粉々に砕き、
この池や近くの川に流したそうです。
今でもビルケナウは遺骨が次々出てくる場所があったりするそうです。
一方で皮肉にもドイツ人の技術力は高く、下水は全て濾過処理されて川に流されたそうです。
この地域も湿地帯なのですが、排水設備を整えるなどした結果、こうして我々が歩けるような歩道が整備できた、とガイドさん言ってました。
囚人が収容された建物(バラック)に向かいます。
このようにバラックは老朽化が進んでおり、
いまほとんどのバラックが立ち入り不感症です。
その中の一つだけ、内部を見学できました。
バラック内部。
何百人もの囚人が一つのバラックに押し込められ、寝台一つに平均5人が寝かされていたそうです。
死にかけている人のうめき声や、洗われることがない不衛生な身体や排泄物の悪臭にあふれ、そこら中にシラミが湧いていたそうです。
1日の食事は
朝 500ccの液体
昼 1リットルのほとんど水の腐った野菜スープ
夜 300-350gのパン、マーガリン3g
生きれるはずがないです。
とある生還女性は収容時75kgが解放時25kgだったそうです。
このバラックには絵が描かれています。
誰が書いたかは不明だそうですが、実際にここで収容されていた人の話では、消毒室に連れていかれ、戻ってきたら絵は完成していたそうです。
囚人の中には絵画や音楽で看守に取り入り、高待遇を獲得していた人もいたようです。
アンネ・フランク慰霊碑
アンネの日記を昨夜見たばかりですからね、、、。胸が痛みます。
(以下映画のネタバレ注意です)
アンネの日記は隠れ住んでいた家が摘発される所で終わります。
その後は映画ではわからないのですが、
ネットで調べると、どうやら収容所に連行されたのがこのビルケナウだったそうです。
15歳だったのであと一年早かったら有無を言わさずガス室で処刑でした。
ただその後にベルゲン・ベルゼン強制収容所に移送され、不衛生な環境下でチフスを患い死亡しました。
同じくこのビルケナウに収容され、移送を免れたお父さんのオットーだけが生存し、隠れ家に生還してアンネの日記を発見し、ジャーナリストを夢見ていたアンネの夢を叶えるべく日記を出版したんだそうです。
あの隠れ家に住んでいた各々の人たちのその後はググれば出てくるのですが、とてもとてもしんどいです。即処刑された人もいますし、もうちょっと頑張れれば解放されたのに、という人も何人かいて。
トイレ棟。
老朽化のため中には入れなくなっていますが、
窓から覗くことはできました。